私のアイドル私はテレビを見ない子供だった。私の初恋は西条秀樹だったが、それは唯一見ていたテレビ番組「8時だよ全員集合」で歌い踊るヒデキに、当時3歳だった私はすっかりお熱だった、というわけだ。 それにしても、私の母は教育熱心だった割には、唯一子供に見せていた番組が「8時だよ全員集合」とは… かなりトホホである。 それはさておき、 テレビを見ない私は、小学校4年生で大阪に転校してきて、たちまち、クラスメートの話題についていけなくなった。 それまで、田舎に住んでいて、暗くなるまでサルのように野山をかけまわり、秘密基地を作り、木から落下し、 あるいは海辺の、満潮になると水没する、テトラポットの隙間でおままごとをする、という遊びしか知らなかった私。 大阪の都会っ子たちとは、遊び方も話も合わなくなってしまった。 大阪に来てすっかりインドア少女になってしまった私。 でも、お友達とちょっとは話もしたい、ということで、8時だよ全員集合以外のテレビ番組も見るようになった。 それが、土曜だったか日曜だったかに、NHKで夕方やっていた「レッツゴーヤング」(←このタイトルってどうなの) この番組を見て、初めてアイドル歌手というものの存在に目覚めた私。 時代はちょうど「たのきんトリオ」 無口な転校生は、たちまちマッチ(近藤真彦)派少女になり、 「ギンギラギンにさりげなく」の振り付けをマスターし、休み時間に教室の後ろで踊る…グループには恥ずかしくて入れず、ひそかに家で練習していた(爆) そして中学生。 中学生になると、たのきん時代は翳りを見せ始め、チェッカーズが人気だった。 マッチファンだとはちょっと言いにくい雰囲気である。 しかし私は、言わないだけでマッチファンだった。 雑誌「明星」を母にナイショで購入し、マッチの写真や記事だけ切り抜いて、後は証拠隠滅のため登校中の電車の駅で捨てていた。 切り抜いた記事は、ご丁寧にスクラップし、スクラップブックの表紙には 「くららんとマッチ」なるようわからんタイトルまでつけて、 家には置いておけないので(←ばか)、部室のロッカーに隠して、部活中に熟読していた。 しかし、マッチに一途だった私にとって、衝撃的な事件が起こった。 それは…それは…吉川晃司のデビューである!! 何とかかんとか歌謡祭だったか、何とかかんとか歌謡大賞だったか、よう覚えてないんだけど、吉川晃司様との出会いは、そういう番組だった。 新人賞受賞と言うことで、舞台に並んでいた吉川晃司様は、ピンクのスーツでやけに肩がいかっていて、垢抜けない、なんだこいつは?という外見だった。 ところがところが、 「では歌っていただきましょう!吉川晃司さんで、『モニカ』です!」 のMCで、舞台に飛び出してきた吉川晃司様!! 「センクス、センクス、センクス、センクス、モ~ニカァッハッ!」 と歌い踊るその姿!! とうとう現れたわ、私の理想の男性… というわけで、ここでマッチから吉川晃司に乗り換えた私だった。 とはいっても、吉川晃司に思いっきり入れあげたと言うわけではなく、別にレコードも買わなきゃ、主演映画も観に行かなかった。 というのも、吉川晃司様よりも、もっと好きな俳優が現れたからだ。 松田優作。 松田優作の出ている映画は、せっせと通って見た。 ただ…吉川晃司様の歌は「モニカ」も「さよならは8月のララバイ」も「ユー・ガッタ・チャンス」も「レインダンスが聞こえる」も、いまだに全部歌える。 あ、マッチの歌も、20曲くらいは今でも歌えそうだ。 はまってるんだか、はまってないんだか。 そして、大学生になり、4回生で教育実習のため、母校の中学を訪れた。 久しぶりに部室を覗くと、生徒から 「あの~先生。」 とおずおずと話しかけられた。(教育実習生だから、学生だけど先生なのだ) 「ん、なに?」 先生ぶって返事する私。 「あの~、部室に、先生の名前の書かれた、マッチのスクラップブックあるんですけど…どうしたらいいんでしょうか?」 どっひゃ~~~。 青春の恥はかき捨てられなかったのね~~!! 「す…捨てといて…」 何食わぬ顔で、お願いする私であった…。 |